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スパイ ゾルゲ

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スパイ  ゾルゲ

ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。

1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員として日本に赴き、横浜に居を構える。

当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補から駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次世界大戦の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため日本の政治などに関して豊富な知識を持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。

1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されている[2]。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや当時のディルクセン大使にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。

日本人共産党員とは接触を避け、ロシア語は口にしないなど行動に注意を払いつつ待っていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付ドイツ軍武官やゲシュタポ将校の信頼も得ることになり、やがてオットが駐日ドイツ大使となると、ゾルゲも1939年頃には公文書を自由に見ることが出来る立場となっていた。ヨーロッパで戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになった。

ゾルゲは、その肩書ゆえに諜報入手に大切な支配階級との接触の機会を持てず、スパイとしては物足りなかったアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳に代えて、支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。そこでゾルゲが選んだのが上海時代に知り合い近衛内閣のブレーントラストのひとりとなっていた尾崎秀実である。尾崎を仲間にして日本政府に関する情報が入手できるようになった。こうしてアヴァス通信社のユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、宮城、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。

 

ナチス外相がソ連スパイのゾルゲに送った書簡、日本で見つかる
ゾルゲをめぐっては、ナチスが独ソ不可侵条約を破棄してロシア西部に進軍する計画を立てていることを突き止めたことで知られている。在日ドイツ大使館の報道官、記者として太平洋戦争前の東京で情報収集していたゾルゲは、日本とナチスがともにソ連への侵攻を計画していることをモスクワに報告した。

今回見つかったのは、1938~1945年までナチス・ドイツの外相だったヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)が、ゾルゲの43歳の誕生日に送った1938年の書簡で、この中で同外相は在日大使館におけるゾルゲの「突出した貢献」を称賛している。歴史学者らは、ゾルゲがナチスに非常に信頼されていたことを示す──そしてソ連にとって極めて価値のあるスパイだったことを示す書簡だと評価している。

書簡を発見した東京・神田の神保町にある書店、田村書店(Tamura Shoten)の奥平禎男(Yoshio Okudaira)氏は、ナチスがゾルゲを非常に信頼していたことを端的に示す興味深い資料だと語った。

奥平氏によると、書簡は、ナチス・ドイツ関連資料を処分したいという人から入手したもので、親族の遺品だったとされる。遺品には、リッベントロップ外相のサイン入り写真も含まれていた。売却者は書簡がどういうものか知らなかったという。

書簡は競売に掛けられる予定だが、奥平氏は、リッベントロップ外相の秘書が執筆しているため、どちらかといえば通常の外交文書に近いものになることを注意した。

スパイ活動が発覚し、ゾルゲは当時の日本の当局によって逮捕され、1944年に死刑が執行された。当初、旧ソ連はゾルゲが自国のスパイであることを否定したが、独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の死後、一転してこれを認めている。