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ゾルゲ事件

ゾルゲ事件
警視庁が1941年10月に摘発した国際スパイ事件。ドイツ紙特派員として来日した旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが、尾崎秀実(おざき・ほつみ)らから入手した日本の軍事、経済情勢に関する機密をソ連に報告した。治安維持法違反などの容疑で35人が逮捕され、44年にゾルゲと尾崎の死刑が執行された。宮城与徳(みやぎ・よとく)は43年、拘置所で病死。
尾崎秀実とゾルゲ、

尾崎秀実は、多少国士的な漢詩人でありジャーナリストであった父とともに、幼少年期一八年を植民地台湾で送り、若いころから民族問題・中国問題を体験的に肌で接していたが、一高から東大に入学した直後、第一次共産党検挙事件と大震災後の白色テロ事件にあって社会問題の研究に志ざし、大学院に残って中国革命への関心を深めた。大阪朝日新聞社に就職して社会部から支那部に移り、細川嘉六らと中国革命研究会をもったりしたあと、待望の上海支局詰となった。上海では魯迅をはじめ中国の進歩的な知識人たちと交際し中国の文化運動に参加し、在留邦人たちの「日支闘争同盟」などとも密接に結びついた。上海においてアグネス・スメドレーやゾルゲとのむすびつきもでき、社命で帰国したのち、本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなし、また近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りしえたし、政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位にあった。尾崎にたいする今日の評価はきわめて多様であるが、彼の英雄的ともいうべき努力の中心は戦争を避け社会主義を防衛しようとする必死の抵抗であった。彼はたしかに情報を収集する活動を意識的におこなったが、それも彼のことばによれば政治的な便宜のための手段の一つにすぎなかった。彼がゾルゲに提供したといわれる情報も、新聞社の特派員や在外公館の手に入れる秘密情報と大差ないものであり、むしろ彼は情報収集者であるまえに一個の独立した情報源であり、彼の政治判断や見通しによってゾルゲの活動に協力したのである。彼がゾルゲと深い関係を結んだのも、彼独自の「東亜協同体」論も、日本民族の将来を思いなやんで求めた結果であった。将来ソ連や新中国と提携してゆく場合に予想される日本国内の変革について、彼は労働者階級を主体とする階級闘争によってではなく、もっぱら既成政治勢力内部の工作によって上からなしとげることができるし、またそうあってほしいと考えていたようにみえる。

なおこの事件に関連して、四二年六月に上海において「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら一〇名(うち中国人三名)が検挙された。

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